太郎丸城の概要(首陽城または旭城とも云う)                                        

1、築城 文明10年2月(西暦1469)

2、城主 深尾和泉守重列 宇多天皇近江源氏佐々木氏流深尾氏

3、概要

深尾氏の祖先高義は、近江国深尾村(現三重県員弁郡藤原町古田地区)に住み、

その子行信を経て、その子重列に至り、加納城主斎藤利藤と誼を通じていたので

その招きにより、文明10年2月山県郡に移り、太郎丸地区野田の地に太郎丸城

を築きこれに住み、美濃国守土岐氏に仕え大桑城の支城として、北野城(鷲見氏)

とともに勤める。

土岐氏滅亡後斎藤道三に仕える大永4年68才(1524)病にて卒せり。墓地

は龍翔禅寺南にあり、位牌は高富大桑深尾家菩提寺般若寺にあり。重列は菅原神を

敬い、姓を菅原に改めて、梅鉢を家紋とするも、斎藤と同紋なるため、旗印しは

日の丸に改めたと云われている。

その子、二代城主、重盛氏(重利ともいう)織田信長に仕える。永禄3年(1560)

織田信長に従い桶狭間の戦に参加(土井、山田、大塚、土本、塚本、桑原これに

従う)今川義元氏滅亡す。

永禄7年9月(1564)信長斎藤龍興を改める。深尾重盛火を城下に放ちて攻める。

龍興の臣、不破、安藤、稲葉等の武将、重盛によって降伏を願う。城ようやく落ち

龍興紅州浅井長政方へ落ちてゆけり。重盛永禄8年6月(1565)病に卒す。

62才、法号 済川道弘大禅定門、夫婦の位牌、龍翔禅寺に葬る。

その子、三大城主長男 重政あとを継ぎ、織田信長に仕える。天正元年8月(1573)

越前朝倉氏との戦(姉川の戦)に参加する。(土井、塚本、山内、山県氏これに従)

天正4年信長安土城に移る。岐阜城主織田信忠に仕える。天正10年6月本能寺の

変にて、信長、信忠自害、豊臣秀吉の天下となるや、三男重良に譲り浪人となる。

文禄2年1月(1696)65才卒す。位牌 心光宗伝大禅定門 龍翔禅寺に葬る。

4代城主重良織田信孝に仕える。信濃国高遠城攻撃左大腿部を傷付き癒えざるため

太郎丸城に在りて参加せず。天正11年11月織田信孝の臣、遠藤慶隆、遠藤慶嵐

周囲の豪家を焼いて太郎丸城を攻める。門の外に出て大いに奮戦せり。

この戦いで重三戦死する。後和睦して信孝に仕える。信孝秀吉と戦い戦死す。

 

  

 六地蔵石幢 (ロクジゾウセキトウ)

1、今立年月日  享保壬寅7年(西暦722年)

1、場   所  旧美濃国山県郡太郎丸村六地蔵四辻

1、道   標  右ハせきむら 1里18丁

         左ハすわらみち

1、呼   称  1名 嘘つき地増

          道標に右 せきむら 1里18丁とあるがそれ程近くない

          嘘をついているので、今でも嘘吐き地蔵と言われている。

         1名 子守地蔵

          昔し地蔵様に子供を背負わして農作業に精を出したので、

          子守地蔵とも唱えています。

1、旧江戸時代には、大名道路の四辻に建立されていて、その地が六地蔵という

地名になった。口伝えによれば、昔寂しいところで、しばしば追い剥ぎや送り

狼がでたので、六地蔵を祀り、村人や旅人の安全を願って建てたものと伝えて

います。 昭和30年代の土地改良で現在地に移転安置しました。

2、参考

    六道(地蔵、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)苦悩する、人々を救う為に、

    六つの分身になられたとされ、六地蔵尊を石幢に刻んで安置されたもので

ある。

 太郎丸「かけつ」の伝承

 

太郎丸「太郎丸団地」前付近一帯は、江戸時代から明治30年頃まで一面に花の菖蒲や

「かけつ」が群生していて、「かけつケ洞」と呼んでいた。

花盛りの5月〜8月期には、食堂や出店売店等が出て大勢の見物客で賑わい、芸者の姿や

三味線の音が聞こえたと伝えています。

明治30年前後に改田工事が行われ皆な、田に変わったという。その池の畔に大辨方尊天の
水上様がお奉りしてあったのを、土地改良の時山裾に奉り替えて現在に至っている。

新種「太郎丸かけつ」

この地でカケツの新種が発見されて、それを「太郎丸カケツ」という

 

民話  「吉祥寺の火ばしら」

                小祠 秋葉神社の伝承

岐阜市東北部にある太郎丸は平成7年にNHK大河ドラマ、織田信長セットが設けら

れて一年間大変賑わいました。  その南に源太峰という山がありますが、その山裾に

曹洞宗永平寺直末の如意山吉祥寺という禅寺があります。

 この寺は始めは今から700年ほど前に滋賀県大津の天台宗延歴寺末寺として、大津

の日枝大社の分身を戴いて日枝神社を現在地に建立致して以来この神社の別当として、

明治の始め迄、司ってきた寺であります。

始めは日枝神社より西へ1キロ程入った寺洞に草堂を立てていましたが、落雷で草堂が

焼けてしまい、しばらく無住でしたが、永平寺より再建され、以来直末として今日に

至っております。

しかるに、この寺が、明治24年10月28日午前6時37分発生した濃飛地震で倒

壊し大きな被害を受けました。その再建には各地からこられた大工達の奉仕作業で勧め

られました。

建てるに当たっては、地震で折れた材料を、付いてたり、補足したりして一つも捨てる

ことなく、有効に活用して建てて戴いた、今日も言い伝えられて感謝されています。

その時建築材料の柱が足りないので、加茂神社の木や御墓の木も使い完成致したそう

です。皆喜んでいたら間も無く、完成した寺に、お宮の木を使った柱の上の峰付近から

夜夜深夜に火柱が立つのが見えると言う人が増えました。これは、お宮のたたりだと

驚いて、住職12世香天和尚と檀信徒はお寺に集まって般若心経を唱えて祈祷を続けま

したが、治まらないので、恐ろしくなりました。我々の力ではどうにもならないと判断

して、火難除けの神様「秋葉神社」のお力にすがるしかないと「遠州華睡斉の秋葉神社

」分身をお授けして、お寺の山に奉り込みました。あれ程恐ろしかった「火柱」も消え

て檀信徒一同安堵したと言われています。

その日が旧暦の9月18日ですので、祭礼日と定め以来太郎丸西組の青年が中心になって

、一度も欠かすことなく、100年余りも続いています。幸いとそれからは火災にあうこ

となく無事に暮らすことができます事に感謝している。

 

伝説 「三獄神社神楽の由来」

郷土芸能の獅子舞は一般に神楽といいます。 この神楽の起源は今より百三十余年前の

徳川末期です。三嶽の産土神は非常に神楽がお好きでした。

当時の豪農の小澤三郎兵衛氏が獅子の面を買い求めに名古屋に赴きました。

用件を済まし、ある一軒の茶店にて仕度を終えて出るとき財布を忘れて出ました。

すると一人の白髭のお爺さんが現れ、この財布は御貴殿の物ではないかと言って

財布を届け、何処かに消え去りました。

その人をよく調べたが遂に名前も、何一つも判明しませんでした。

それは、即ち産土神であったかの如く今も古老より聞きて伝えています。

それ以来毎年祭礼には神楽を奉納し続いて夜は余興に「阿波の鳴門」「忠臣蔵三段目、

五段目、七段目、朝顔日記等を演じ続けてきましたが、時代も変わり、神楽のみは現在

も続けています。

 

伝承 「福富村の由来」

弘安三年(西暦1280年、後宇多天皇)7百年前に草深い集落でわずか18戸の家が

点在していたに過ぎなかった時に伊勢の国富之郷というところから、大空沢山と云う僧

が、この地の渡辺 安と云う豪家にやってきました。

この僧が京都の東福寺で修行中に阿弥陀如来が夢枕に立って「東に行くべし」とのお告

げがあり、その仏を請い受けて東に旅をしてきたのである。

渡辺 安が現今の如来堂に、わら葺の堂宇を創建して、この如来を奉安しました。

翌弘安四年(西暦1281年)これ迄この地を春近の庄とだけ呼ばれていたのを

東福寺の「福」の字と大空沢山と云う僧の出身地である富之郷の「富」の字をとって

「福富」と呼ぶようになったと伝えている。

また美濃国諸舊記に福富の住人 福富七郎左右衛門貞吉、その子平太郎貞家織田秀信に

仕える。地名をとって福富衆と名乗ったといわれている。

 

伝承 「浄土寺、念仏の由来」

 

正応二年(西暦1289年)阿弥陀如来堂を今の天神当たりに移し、諸堂を建立し勅許が

あって、大沢山浄土寺と云う寺が出来た。

翌三年(1290)北条貞時の祈願によって、この寺は三町四方の寺領に、御朱印禁制の

高札を賜り三万三千坪の境内は益々整備されていった。

福富の村寺として、信仰の中心であったが、長亭二年(1488)火災の為、諸堂焼失し

たが、幸い阿弥陀如来は難をまのがれることができた。その後寺は現今の地に移されたが

百年以上も無住で寂れていた。

寛永二年(1643)住職吟龍和尚が聖観音菩薩を比叡山西谷浄土院から当寺へ奉安し

正保三年(1646)から福富の村中の念仏が始まり今年(昭和57年)三百四十年間

もこれが続いて行われている。

阿弥陀如来は浄土寺の本尊様であり約八百年前の鎌倉時代の作であり、聖観音菩薩は平安

時代の作で千年以上前のもので共に県の重要文化財に指定されている。

 

槍ヶ岳開山の修行僧

       山岳仏教の播隆仏岩上人

山中の独修独行

播隆上人は天明2年(1782)越中国新川郡太田組河内村に生まれました。生家の

中村家は農家で一向宗の道場でもあった。

道場は一種の簡易寺院であり、寺のない部落での仏事の中心であり、巡錫(ジュンシャク)の

僧をもてなしたり、その説法を聞いたりする川上道場と呼ばれていたので子供の頃から
信仰心が厚く、長じて出家した。二男という自由な立場でもあった。播隆は、山城国伏見
鳥羽の一念寺の蝎誉和尚について修行、ついて和泉国阿辺ガ峰宝泉寺の見仏上人の弟子

となった。しかし播隆は次第に寺院での修行に疑問を抱くようになった。   
 そして
純粋に仏道を志す播隆は托鉢僧となり、清浄の地を高山に見いだした。
あるとき人跡未踏の岩上に座して一夜を明かし、またあるとき、断食して岩窟に篭もりなど
して、激独修独行の明け暮れだった。山は非常に美しく、常に厳しい、神秘的とよぶには
余りにも荘重で
あった。山にこもれば、こもるほど播隆はその魅力に惹かれた。

 

笠ガ岳登山道を開く

文年4年(1821)播隆は飛騨国高原郷本郷村の本学寺を本覚寺をおとずれ、岩井戸村、

杓子の岩屋にこもった。眼前に聳る笠ガ岳は古くから山岳仏教の霊地として知られていた。

ぜひ参拝したい憧れの峰だ、ところが登山道がないという、「登れぬはずがない」

この山が開かれたのは古い。本覚寺の中興の道泉が発登頂してのち、円空、南裔なども

山頂をきわめている。このことを知っていた播隆は試みに登ってみた、永いことつかわ

れていなかった登山道は至るところで崩れていた。修復は人手さえあればさして難事ではない。
自信を持った播隆は本覚寺の住職に相談をもちかけた。そして山裾の名士 今見右衛門に
協力を求めた。ただちに村人達の手で工事が始められた、50日程で完成した。

時に文政6年(1823)7月29日であった。その後何回も槍ガ岳に登り霊場再興に力を
注いだ。翌文政7年には登山道に道標と石仏を
配し、山頂には銅の逗子に納めた阿弥陀如来像を
安置した。

 

槍ガ岳に挑む

笠ガ岳を復活をなし遂げた播隆はいよいよ生涯をかけての大事業の人跡未踏の処女峰の

槍ヶ岳の開山に乗り出した。

文政9年(1826)8月松本から1里程離れた本郷村の玄向寺を訪ねた播隆は、住職

より飛騨振動の登山口に当たる南安曇郡小倉村の中田久左衛門を紹介された。

同家は鷹の雛を捕らえて、公儀に献ずる役目の家柄であるので山に自由に出入りする特

権が与えられていた。九左衛門は娘婿の又重郎を案内人に紹介した、又重郎は飛騨新道

の開発に携わっていた人物で地理に詳しい27才の青年であった。

2人は入念な準備を整えてr出発した。新道を、大滝山・・蝶ケ岳・・ワサビ沢・・桂川

・・杣小屋・・二の又・・槍沢・・天然の岩小屋・・沢の渓谷・・第2天然の岩屋(坊主

岩小屋)2人はこの小屋を足場に登頂に成功した。2人は相談して山頂に阿弥陀如来像を

安置しようと決心した。

 

山頂に阿弥陀如来像を安置

 

播隆は計画を達成する為に再び行脚の旅に出た。阿弥陀如来づくりの為の浄財集めで

あった。この時に美濃国山県郡福富村や春近世保村、溝口村等の浄土宗の檀家の方々

協力をお願いしてまわったこととおもわれます。

現在福富天神の○○○○家には播隆昌人の名号軸があり家宝にして大切にしている。

また、溝口の墓地と清関寺門前と森の建福寺の山門脇の三個所に同じく播龍の南無阿弥

陀仏の名号碑が建立され大切にされている。

このように播龍の熱意は多くの人達の共感を呼んだがそれでも念願の仏像が完成する迄

に二年を要した。

文政11年(1828)2人は勇躍、槍ガ岳を目指した。幸い仏のご加護で無事に山頂に
立った。播隆は山頂の岩を積んで祠を作りその中に三体の仏像を安置した。   
時に
文政11年7月28日であった。

のち、播隆昌人は何度も槍ガ岳に登り修行に励むかたわら天保5年(1834)には槍

の穂先に130余メートルの縄をかけ、同11年にはこれを鉄鎖にかえるなど、山をけ

がすという一部の非難をもものともせず、ひたすら信者の登山の為に奉仕を続けたので

あった。

 

播龍を支えた人々

播龍の名号軸を掲げて勤める播隆念仏講が現在も美濃、尾張地方に十数カ所程あり名号

軸も百数十幅ほどかくにんされている。辻に建てられた名号の「南無阿弥陀仏」の名号

碑も79基、そのうち58基が岐阜県内にある。今も播龍の遺徳と偉業を支える多くの

人々がある。

 

猪早太の記

春近古市場南屋敷の県道高富関線沿いのコンクリート塀の中に猪早太の墓があります。

口碑によれば、猪早太は源頼政の部下で、治承4年宇治川の戦いで頼政戦に負けて

宇治平等院の庭で自尽せられましたとき、頼政の首級を背負って千疋植野に来て

蓮華寺に葬りました。その後はこの地に居住したと伝えられています。

本名は渡辺 競といい猪早太は仇名といわれています。墓は連続五輪塔があります。

 

日本「落語」発祥の地 三輪 浄土宗西山派  淨音寺

落語創世者 安楽庵策伝上人

慶長年間美濃国山県郡北野城主、三万石 金森法印(父 土岐可頼)の腹違いの弟として

生まれた。後8才にして千石の石高をもって、浄土宗西山派三輪淨音寺に出家する。

のち、京都に遊学し、京都東山禅林寺(永楽堂)で修行し、書道、歌道にも優れ、小堀遠州ら
とも交友して、茶道にも精通して、大本山誓願時に進むとともに、誓願時第55世。

西山第27世 浦叔上人の弟子として、備前大雲寺、備中誓願時、法然寺、極楽寺、備後

の西方寺、全政寺等を建立した。また泉州堺の正法寺にも住み、また美濃の立政寺にも
飛錫して、当山の貫主となり大いに導化を施す。

後、塔頭竹林院を創り住む。後水尾天皇詔して、曼陀羅を講ぜしめらる。弁舌爽快人をして
大いに感動せしめしは、余りに有名である。

醍睡笑八巻を表す。寛永19年1月8日入滅せり。

水内法に今も言い伝えられているのに、「平林」という一口笑い話はこれもまた大変

有名である。

 

岐阜県指定史跡

獅子庵(各務支考)

この獅子庵は、松尾芭蕉十哲の一人で美濃派俳諧の始祖である各務支考の住居で、平屋

建ての簡素な建物である。史跡にはこのほかに句碑と池が含まれている。

各務支考は寛文五年(1665)山県郡北野村西山組に生まれた。幼くして同村の

大智寺(臨済宗妙心寺派)へ入り、滝澤禅師のでしとなったがやがて仏門をはなれた。

元禄三年(1690)三月、26才のとき近江栗津の無名あ庵に芭蕉を訪ねて門下となり

以来俳諧を志し芭蕉に従い各地を遊歴した。

正徳元年(1711)46才のとき、郷里に帰りこの庵に住んだが、以後も美濃を中心に

俳諧の普及に努め、享保16年(1731)2月7日67才の生涯を閉じた。

獅子庵の北川には支考の遺骨を納めた、梅花仏と歴代道統の句碑がある。

支考の句碑には継ぎのような句が刻まれている。

牛叱る声に鴨立つ夕かな  黄山老人        記 岐阜市教育委員会

 

北野城

北野城主の鷲見氏は建仁年間(1201〜04)に雲ヶ嶽(現在の鷲ヶ岳)の大鷲退治

の伝説をもち、郡上鷲見の地に安堵された豪族であり、城は建長5年(1253)に

鷲ヶ岳の一部に築かれて、東氏の篠脇城に比肩できる山城で約240年間この城により

東氏に従属しながらこの地を支配していたが、明応年間(1490−09)頃、鷲見

美作守保重時代に土岐成瀬氏に仕え北野を拝領してこの地に北野城を築きこれに居り、

城は太郎丸城(深尾和泉守氏)とともに大桑城の支城を努めたり。

明応9年5月(西暦1500後柏原天皇)北野城主鷲見美作保重禅法を帰依して1字を

創建して、雲黄山大智寺と称し現在の大智寺なり。

しかるに、永正7年(1510)8月18日斎藤秀龍の為に攻められて敗れ、部下将と

共に自刃せり。その時53才なり。法名大智寺殿前作州大守天遊元光大居士と稱す。

その妻松野は大桑村の松陰氏の女にして、その子を伴いて高富森に隠れ、庵を結び、

尼となり亮録元年2月卒す。法名廣厳院殿松岳理貞大姉なり。

後保重数世の孫正保小早川秀秋に仕へ、備前岡山に有りて350石を領せしが、病ひて

高富に帰り承応元年4月卒す。法名英玉快雄禅定門と称して墓は黄厳寺にあり、同村の

鷲見氏と岐阜曽我屋の鷲見氏はこの末裔なり伝える。     

殉死13士の氏名と墓所は明治に入り承天和尚大智寺に碑を建てり。

林田新五右衛門重治   滝口兵太夫元之    久津見伊藤太義方  原田人見一唯

牧田権十郎定賢     金谷半之丞利政    青木三郎左兵衛門宗倫

長谷部藤左衛門守行   岡野源五右衛門政周  松根源太兵衛久保

小倉定之進久眼     戸倉孫七郎高通    宮崎軍治兵衛氏久

櫂立山を一名 勢引山と唱える、これは永正の頃、斎藤秀龍が北野城を攻めた時、その

軍利あらず一時この山に軍勢を引き上げたので、勢引きと名がついたと伝えられている。

 

雑  感

三輪釈迦と真長寺庭園(枯山水)

私の生まれた所は長良川の上流で三輪の農村地帯でありますが年と共に緑の山あいには

住宅団地が出来て平和の山里にも人口が増え都市化の波が押し寄せていて東海環状道路の

通過により依り一層の発展が望まれる地域でもあります。

この私達の郷土にも地域住民の長い間の社会生活、素朴な信仰を通じ、血と汗で生み出された
有形無形の文化遺産があります。その時その時の歴史のにおいがしみついた二度と

作れない大切なものです。

その大切なものの一つに岐阜市指定唯一の 名勝の重要文化財真長寺枯山水名園と通称

三輪釈迦でしられる国指定重要文化財の木造釈迦如来座像があります。

三輪真長寺は長良川上流、武芸川畔の三輪山南嶺山腹にある真言宗の古刹、当地の古代

の土豪神直(三輪)氏の氏寺であった。当山は、奈良時代の神亀年中(724−729)

勅願により僧行基の創建と伝え七堂伽藍十六僧坊の整った大寺院であった。

奈良の三輪山から白雉年代(656)に大神明神を勧請して三輪山信仰の中心となり神仏

混淆時代の別当寺であった。

創建当時は洞泉山真長寺といわれた天文四年(1535)近松光保の弟吽阿上人が再興

して三輪山真長寺と改め室町時代には織田信長から寺領十七石七斗を賜り、岐阜城落城

後しばらく織田信孝がこの寺にかくれたことがある。信孝筆の文書も残っている。

徳川時代には、代々、将軍より朱印十七石七斗を拝領し、また将軍代々の大きい位牌が

安置されている。その為諸大名も下馬したという、立派な下馬碑が建っている。

三輪地区十四ケ村を潤す山県用水の水源(中濃用水)であり、美濃紙代官がおかれ

武芸谷舟運の中継地としても発展してきたものである。従って多くの大名や代官から

寄進状、神社、用水に関する古文書も多数保存されている。

その寺の客殿の前にある庭園は江戸時代初期の作庭と伝えられ、京都の龍安寺石庭と

並び評価される芸術性高い枯山水の名園があります。

並べられた苔むす名石の位置は変わることなく、一面に生えた苔とともに昔のままで

当時の面影を残しており、作者の深い思想が忍ばれる。

庭に連なる飛び石は川ずれした大きな石が16ケ並べ寺内十六僧坊の名残という。

また庭へのくぎりには一段と大きな山石を境として現世と蓮華の世界とを分けたのだろう。

庭には七個の石を一個一個点石として配しそれぞれの石と石との連携が強くあらわされて

おり龍安寺の様な石組みは1個所もない。

真言密教の思想や禅の思想、そして茶の湯の思想によって配置された七個の石にもそれぞれ
個性がありそれが全体として統一され、幽遠な自然の山水風景を形づくっています。

ところが作庭されて四百年あまりの歳月が流れる間に、一時は雑木が生い茂り当初の思想

や糸が伝わらないままに荒れ果てた時代もありました。

しかし、日本庭園の大家森茂三鈴先生の調査の後、石は一度も動かされた形跡もなく雑木を
取り払い塀を再現すれば、立派な庭園に生まれ変わると励まされ、雑木を取り払い塀の代わりに
竹垣を設けて、雰囲気や思想性、芸術性の再現に努力されている姿に接し感銘を

受けましたので、当時会長でもありましたので岐阜北ライオンズクラブの重要文化遺跡の継承
事業として取り上げクラブ員総動員のもと岐阜市長さん、岐阜市教育委員会に御理解

御協力を御願いいたしましたところ、幸いと市当局から多大な補助を頂き専門の先生の

設計監督で立派な塀が再建されました。

岐阜市、名古屋市を始め各方面から高い評価を受け、参拝者も多くなりました。

岐阜市の奥座敷の庭園として、広く市民や心ある方々に鑑賞いただき、限られた平地に最も
少ない石を使い石にあった作庭することによって人間の心を聖域に導いてくれるこの作者の非凡の心
を、一日ゆっくり鑑賞されては如何でしょうか。

        春の園 遠き日に

              廃れ苔むす石        安井承世

参拝の道筋に鉄筋の防火建物の中に、藤原時代末期(約800年前)丈六座像の寄木造り

の木造彫刻の京都にあっても不思議でない、国重要文化財釈迦如来像があります。

ふっくらとした豊かな作風は日本人の好みにあった美しさと、優しさを兼ね備え、どっしりとした落ち
着きはは拝むものの心を安らかにし寛大にさせてくれます。

地元中学校では毎年の京都、奈良方面の修学旅行前に客殿で座禅し庭園を鑑賞する習わしになっています。

私も秋の紅葉が夕日に映えて見る枯山水の風情とうっすらとかかった行きの景色は1年の

うちで一番好きな姿です。

また寺宝に鎌倉時代からの優れた仏画もあります。あわせて拝観されれば、いつまでも忘れることなく
心に残るでしょう。(真長寺説明書参照)

 

三輪地区の重要文化財

私達の郷土、三輪地区には地域住民の長い間の社会生活、素朴な信仰を通じ、血と汗で

生み出された有形無形の文化遺跡があります。その時その時の歴史の匂いが染みついた

二度と作れない大切なものです。その大切なものの中に有名な国指定重要文化財を始め

県指定や市指定の数々の重要文化財があります。このことが三輪地区は岐阜市文化の発祥の地と
いわれる所以であります。このすばらしい地域の歴史と文化を一人でも多くの次世代へ継承する
ことを切望してなりません。

1、国指定重要文化財

  

種  別

時  代

名  称

所 在 地

指  定

彫刻

平安

木造千手観音坐像

溝口240慈恩寺

大正3.9.25

藤原期

木造釈迦如来坐像

三輪778−1 真長寺

大正4.3.26

 

2、県指定重要文化財

種  別

時  代

名  称

所 在地 

指  定

彫刻

鎌倉

木造阿弥陀如来立像

福富647-1

昭和43.3.27

藤原期

木造聖観音立像

 

3、市指定重要文化財

種 類

時 代

名  称

所 在 地

指 定

彫刻

江  戸

木造薬師如来立像

木造尼僧像

中屋241 薬師寺

    同

34.8.10

彫刻

平  安

木造大日如来坐像

石原3-60  醍醐寺

60.7.22

転籍

平  安

大般若経 300巻

太郎丸諏訪 上諏訪神社

46.8.10

書籍

江  戸

絵本墨書 銘白隠筆

福富1072 小林寺

60.07.22

書画

鎌  倉

涅槃図

三輪778−1 真長寺

14.09.23

桃  山

文殊菩薩像

彫刻

 

木造神像(半身像)

三輪井ノ洞 三輪神社

43.04.17

石材

 

三輪神社石鳥居

51.08.23

 

 

 

種 類

時 代

名  称

所 在 地

指 定

書籍

室  町

絹本着色悟渓宗頓像

北野688 大智寺

55.07.22

絹本着色玉浦宗民像

 

 

 

 

 

 
4、市名所指定

種  類

名      称

管 理 者

指  定

名  所

真長寺の枯山水石庭

真 長 寺

46.08.10

 

5 県指定 天然記念物

種  類

名      称

管 理 者

指  定

天然記念物

県指定 白山神社の大杉

福富字下山 白山神社

43.03.27

県指定 大智寺の大桧

北野688 大智寺

43.08.06

 

6、県指定 史跡

種  類

名      称

管 理 者

指  定

史 跡

獅 子 庵

北 野

38.09.10

 

7、市指定天然記念物

種  類

名      称

管 理 者

指  定

天然記念物

三輪神社 大杉

三輪字井ノ洞 三輪神社

51.01.27

三輪神社 大杉

天満神社 椎

福富天神前 天満神社

01.05.20

北野神社 杉

北野字西沖 北野神社

52.09.27

 

8、市重要無形文化財

種  類

名      称

管 理 者

指  定

民 俗

三輪神社稚児山の芸能

三輪字井ノ洞 三輪神社

57.08.23