中央の高い石は鶴石、左が亀石、その左手前の大きな石は不動石、その後ろ中央は竜子石、一番東南には蓮華石、鶴石の
手前西には主賓席が鎮座しその後ろ西に主賓守護石が控えている。真言密教の思想から言えばこの庭は胎臓界の瞑想曼荼羅で
あると言われ、中央の高い石は大日如来、周りに広がる幾つかの石はそれぞれ諸仏になぞらえて考えることができる。
 限られた平地にこのような苔むした石を使い、それぞれの石の持つ相に合わせて作庭されている。東海地方では最も古く、
思想性、抽象性の高い枯山水の石庭である。  
                                
                      <三輪山真長寺文化財保存会 発行 真長寺古文書読解書 第一巻 より>

真長寺の歴史と文化財
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   1  洞泉山真長寺
     
     創建について、寺では、行基により仁寿元年(851年)とか、天喜3年(1055年)とか伝え
    ています。行基(749年没)東大寺大仏造営に働き完成の年に没した人であり、そのユカリの寺が
    あったところから、行基創建という話が伝わったのかもしれません。本尊釈迦如来座像の成立期が
    平安中期と見られるところからすると、真言宗の寺としての創建は、天喜3年(1055年)あたりとみ
    るのが妥当でしょうか。
     創建時の寺号は、洞泉寺真長寺と称し、大和国の三輪( 奈良県桜井市 )の里より、三輪明神を
    招請し、その別当寺として栄えてきたと、寺では伝えています。
      真長寺には、応永18年(1411年)5月3日の売券(30頁収載)をはじめとする古文書があり、
    文明8年(1476年)1月13日の慶静坊観栄売券に真長寺名がみえ僧坊名としては経静坊のほか
    坂本坊・大房・長円坊・良盛坊などがみえます。寺中の寺が多く存在するということは、それだけ繁
    栄し、勢威を持っていたと言うことです。

  2  三輪大明神の別当寺

     我が国の山岳仏教は、平安時代初期天台宗を開いた最澄と、真言宗を開いた空海によって、
    制度化され、国家仏教のなかに、確固たる地位を得ました。従来の仏教では、日本固有の神は
    解脱し仏に再生しなければならないとされていましたが、密教においては、神は神のままで仏教
    を護る護法神として認められるようになりました。これにより、神と仏は近い存在としなり、神仏習合が
    飛躍的に進みました。この密教は当初、高野山金剛寺を開き、真言宗を広げようとした空海によって
    普及されましたが、やがて、比叡山延暦寺を開き天台宗を興した最澄も取り入れました。
     三輪山を北に背負い、東を清流武儀川が南流するのをみる自然環境に恵まれた地にある真長寺
    が、高野山真言宗の寺としてし出発し、山県井水の幹線路を守護するかのように建つ三輪明神の
    別当をつとめていました。もともと三輪神社があったところに、真言密教の修験道場としての真長寺
    が根づき、栄えてきたのかもしれません。  
     いま、真長寺の客殿中央に、内持仏の大日如来が安置されています。この像は神仏習合時代の
    代表的な仏像です。 像高は47センチメートルと小さいですが、その台座と光背を合わせると、1メートル
    50センチにもなります。繊細な彫刻が施された台座には、中央に神器の一つである直径12センチの鏡、
   上部に4体の狛犬が座し、下部の4本の柱には獅子頭、その中央の三つの欄間には鳳凰の彫り物、下壇
   の欄間には龍が巻きつく姿の彫り物が見えます。 この大日如来は宇宙の真実(中心)を示す仏であり、
   宇宙創造の神天照大神と一体のものであることを現す神仏像としての様相を呈しています。  
     この木造大日如来については、江戸時代初期に、真長寺から注文を受けた大仏師香甫・大膳が
   金10両で造仏していることをうかがう文章が寺にあります。傷んだか焼失したかした大日如来を造り
   直そうと下のでしょうか。いや新たに造ろうとしたのでしょうか。
     寺蔵の「三輪大明神縁起」によれば、明神の「本地は釈迦如来也」、「垂迹は大己(おおなむち)貴命也」
   としており、本来は、真長寺の釈迦如来を本地とするものであったようです。大日如来は、古い時代
   にもあったとしても、三輪山信仰に加えられたものといえましょう。

 三輪山真長寺

     山県郡の三輪地方には、土地の豪族三輪氏が勢力を張って、真長寺はその宇治寺として建立された
    と伝えられています。三輪氏は、大野郡三輪村(揖斐川町)にもおり、三輪神社を建立しています。
    「横倉寺旧記」には、その昔乱世の時、和州三輪明神より山県郡へ釈迦如来が遷座した、と記しています。
     三輪氏という豪族の事績は、よくわかりませんが、丈六の釈迦如来を安置できたことから、たいへん
    有力な豪族であったことがうかがえます。
      三輪氏の保護を受け真長寺は、三輪山を舞台に真言密教の道場として、次第に栄えていき、多数の
    坊を擁するに至りました。のちに十二坊といわれていますが、もっと多くの坊があったようです。
    のちに十二坊と言われていますが、もっと多くの坊があったようです。
    「十二坊」と言われるのは、真長寺四十一号文書「山篭銭納口注文案」に載っている次の坊です。
       1 大坊(中心となる本力)  2 坂本坊        3 淨法坊       4 実蔵坊
       5 東光坊            6 寳泉坊        7 新坊         8 真如坊
       9 妙光坊           10 池之坊       11 西之坊      12 下之坊
    ところが、このほかにも、いくつかの坊があり、時代の変遷とともに、建立される一方衰退していった
    ようです。
      1 慶静坊(支明八年の三号文書)
      2 明音坊(文亀二年の七号文書)
      3 南之坊(文禄三,四年二八、二九号文書)(号数は岐阜県史史料編古代中世1所収真長寺番号

3 寺領の動き
    真長寺の寺領は、慶長14年(1609)の大久保石見守検地後、幕領代官鈴木左馬助・和田河内守垣成・
   平岡因旛守良和の調査・具申を経て、御朱印地十七石七斗と決められました。
    御朱印地とは、徳川将軍から領地を認められる朱印状の下付を受ける土地です。諸大名のほかに由緒ある
   名高い社寺がその朱印状の下付を受けました。慶長・元和期の美濃国の社寺では、南宮神社300石を筆頭に
   1 社17か寺計760石余りが朱印地となっています。17石7斗はいえ、年貢徴収主は真長寺自身であり、小領
  主的な立場に立ったことになります。
    当時、山県郡ではほかに西深瀬村の慈明寺が御朱印地10石と決められているのみです。このことは、真長寺が
  郡内きっての由緒ある古刹であり、霊験あらたかなる霊場として認知をうけたということです。郡内では、のちに
  南泉寺5.17石、三輪神社6.1石、大智寺18.8石が御朱印地となっています。
    真長寺の寺領は、江戸時代を通して、将軍の代がわりごとに朱印状が届き、17石7斗とかわりませんでした。
 

 真長寺の文化財

   1、仏像
        @ 木造釈迦如来座像 (国指定重要文化財) 
              高さ4メートルあまりの桂材の寄木造りで漆箔仕上げになっています。平安時代中期の
            彫刻で、宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来座像とほぼ同じ大きさで、県内の仏像としては
            最高の作品の一つです。この仏像は、いわゆる定朝様の堂々たる丈6の来迎形で、右手
            は屈臂して施無畏印を結び、左手は膝上に迎いて与願印で示し、結跏趺座した姿です。
            まるい椀形の肉髪・地髪には螺髪を整然と配し、肉どりも過不足がなく、いかにも藤原期の
            典雅な象形を示しています。如来形は、32相として、肉髪、眉間の白毫、長い耳朶、指間の
            水掻などに藤原期の特色が表されています。光背はは、頭光と身光いずれも円光形式の
            二重組み合わせであり、これを二重円光といわれ、これも藤原期に流行した形式です。
            刀法は、幾分浅くなっていますが体部の一部に翻波の名残りをとどめ、いかにもどっしり
            した像容、胸から腹部にへ、そして膝を覆った衣紋のッ表現を藤原期の特色です。
             ふっくらとした豊かな作風は、日本人の好みにあった美しさと優しさを兼ね備え、どっしり
            した落ち着きはは拝む者の心を安らかにしてくれます。
             昭和26年に解体修理が行われ、台座が新調され保存庫が作られました。現在の新
            保存庫がつくられました。   現在の新保存庫は昭和55年3月に完成したものです。


        A 大日如来座像
             本体は47センチメートルで、台座と光背を合わせると1メートル50センチとなります。
            繊細な彫刻が施され、台座には中央に鏡、上部には4体の狛犬が座し、下の4本の柱
            には、獅子頭を彫り上げてあります。  中央の三つの欄間には鳳凰の彫り物、下壇の
            欄間には龍がまく姿が彫ってあります。(以下略)

   2,仏画
         @ 釈迦涅槃図  縦 173p 横 162.5p
            室牧時代初期兆殿司様式の絵画。岐阜県には兆殿司様式の絵画が少なく、その様式を受けたすぐれた絵画です。
         A 釈迦十六善神図  縦 112p  横 53.5p
                室町時代初期の絵画です。破損が甚だしい。
         B 文殊菩薩図  縦 90.5p  横 52p
                鎌倉末期、破損甚だしいが、均斉のとれた古様を残す絵画です。
         B 十二天図
                十二幅全部が同一時期の絵画ではありませんが、日天・月天・焔魔天が鎌倉末期
               羅刹天・風天・伊舎那天・毘沙門天・帝釈天・火天が室町時代、梵天・水天・地天の
               三点が桃山時代とみられます。 十二天図は、密教で方位の守護神として信仰されて
               います。(『岐阜県史通史編中世』佐和隆研氏執筆文による)

   3,庭園
           枯山水石庭  岐阜市指定名勝

           客殿の前にある石庭は江戸時代の初期に造られた京都の竜安寺の石庭と同じ枯山水様式の
          数少ない名園です。 各石の位置は今日まで変えられておらず、一面に生えた苔とともに昔の
          ままの姿を残しています。 庭に入り、先ず、川ずれしのした大きな飛び石を伝っていくと一段と
          大きな山石が現れます。この石を境にして私たちは現世から、蓬莢の世界へ導かれるような気分
          になります。 
           飛び石はさらに一つ一つ種類と形の異なった山石に変わり、客殿の正面へと続きます。
           客殿の縁に座って眺めると、やわらかな緑の苔を敷いた庭に、間をおいて、配置された7個の
          石、庭を仕切る低い塀、その背後の微風に波打つ竹藪が、俗世から隔絶された聖域を作っています。
           中央の高い石は鶴石、左が亀石、その左後ろは蓮華石、右の山形石は主賓石、その後ろは
          主人守護石、入り口の立ち石は不動石、中央後ろは竜子石で、石はそれぞれ意味を持っています。
          真言密教の思想から言えば、石庭は瞑想曼陀羅であり、中央の高い立石は大日如来、その左は
          阿弥陀如来、入口手前は不動明王、その後ろ、飛び石のすぐ南にあるのが文殊菩薩、その後ろが
          薬師如来、右の山形石は観音菩薩、その後は地蔵菩薩、などと考えられます。
           限られた平地にこのように少ない石を使い、それぞれの石の持つ相に合わせて作庭されています。
          岐阜県下では最も古く、思想性、抽象性の高い枯山水の石庭と言えましょう。
           

        

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